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第一章 30話 ローディア公爵家②

مؤلف: 葉月うみ
last update تاريخ النشر: 2026-06-19 15:28:15

「……お会いしたかったのです、セレネ様」

 その声は、水面へ落ちる雫みたいに静かだった。

 ルシアンは小さく目を細める。初対面の相手へ向ける声にしては、あまりに深い。まるで長い間、胸の奥で大切にしていた名前を、ようやく口にしたみたいだった。

「私に、ですか?」

 セレネが少し戸惑ったように尋ねる。その瞬間、エレノアの瞳がぱっと明るくなった。

「はい……!」

 思わず熱が零れたような声だった。

「ずっと、お会いしてみたかったんです。学院でのお話も少しだけ聞いていましたし、その……」

 エレノアはそこで言葉を詰まらせる。頬が薄く赤い。細い指が落ち着かなさそうに杖を握り直した。

「とても、お綺麗な方だと……」

 セレネが少し困ったように瞬きをする。

「ありがとうございます」

「い、いえ。こちらこそありがとうございます」

 何に対して礼を言っているのか分からない。フェリクスが堪えきれないように小さく笑った。

 ルシアンは黙ってエレノアを見る。先ほどまでの儚げな雰囲気が、セレネを前にした途端に崩れている。分かりやすすぎた。

「本当は……」

 エレノアは小さく息を吸った。

「お姉さまとお呼びした
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  • 感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜   第一章 30話 ローディア公爵家②

    「……お会いしたかったのです、セレネ様」 その声は、水面へ落ちる雫みたいに静かだった。 ルシアンは小さく目を細める。初対面の相手へ向ける声にしては、あまりに深い。まるで長い間、胸の奥で大切にしていた名前を、ようやく口にしたみたいだった。「私に、ですか?」 セレネが少し戸惑ったように尋ねる。その瞬間、エレノアの瞳がぱっと明るくなった。「はい……!」 思わず熱が零れたような声だった。「ずっと、お会いしてみたかったんです。学院でのお話も少しだけ聞いていましたし、その……」 エレノアはそこで言葉を詰まらせる。頬が薄く赤い。細い指が落ち着かなさそうに杖を握り直した。「とても、お綺麗な方だと……」 セレネが少し困ったように瞬きをする。「ありがとうございます」「い、いえ。こちらこそありがとうございます」 何に対して礼を言っているのか分からない。フェリクスが堪えきれないように小さく笑った。 ルシアンは黙ってエレノアを見る。先ほどまでの儚げな雰囲気が、セレネを前にした途端に崩れている。分かりやすすぎた。「本当は……」 エレノアは小さく息を吸った。「お姉さまとお呼びしたいくらいで……」 部屋の空気が止まった。 セレネが固まる。フェリクスが吹き出しそうになるのを堪えるように口元を押さえた。ルシアンは無言でエレノアを見る。 エレノアは、自分が口にした言葉に遅れて気づいたらしい。みるみる顔を赤くした。「あ、いえ、その……申し訳ありません。初対面でこんなことを」「いえ……驚きましたが」 セレネが少しだけ柔らかく笑う。「嫌ではありません」 エレノアの瞳が、またぱっと明るくなった。「本当ですか?」「はい」「では、いつか本当に――」 そこまで言って、エレノアははっと口を閉じた。 ルシアンは眉を寄せる。この令嬢は、思っていたよりずっと感情が顔へ出る。少なくとも、セレネに対してだけは。 エレノアはようやくルシアンへ視線を向け、姿勢を正した。「失礼いたしました、ルシアン殿下。フェリクス殿下も、ようこそお越しくださいました」 今度の声は落ち着いていた。先ほどまでの熱は綺麗に消えている。「足の具合は?」 フェリクスが穏やかに尋ねる。「だいぶ良くなりました。まだ長く歩くのは難しいのですが」 エレノアは儚げに微笑んだ。さっきまでセレネへ向

  • 感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜   第一章 29話 ローディア公爵家①

     ローディア公爵家へ向かう馬車には、ルシアン、セレネ、フェリクスの三人だけが乗っていた。 エドガーは王城へ残してある。レイモンド・グラディス伯爵の交友関係、学院事件当日の記録、ローディア家主催の夜会名簿。調べるべき資料は、まだ山ほどあった。 馬車が石畳を踏むたび、小さく揺れる。向かい側では、セレネが静かに窓の外を見ていた。 今日は珍しく髪を上げている。後ろで編み込まれた黒髪の隙間から、白い首筋が覗いていた。窓から差し込む昼の光が、淡い青銀色のドレスへ落ちるたび、水面みたいに柔らかく光る。 ルシアンは無意識に視線を止めた。 その瞬間、昨夜、指先へ触れた黒髪の感触が不意に蘇る。柔らかかった。思い出した瞬間、自分で少し眉を寄せる。「……顔が怖いよ、ルシアン」 隣でフェリクスが笑った。「別に」「いや絶対、今セレネ嬢見てたでしょ」「兄上」 フェリクスは楽しそうに肩を竦める。セレネは聞こえていないふりをして窓の外を見続けていたが、耳が少しだけ赤い。 ルシアンは気づいていない。「そういえば」 フェリクスがふと思い出したように口を開いた。「ローディア家が、昔から学院へ深く関わっているのは知ってるかな?」 セレネが静かに視線を向ける。「図書塔を管理するための支援も、代々ローディア家が行っていますね」「そうそう」 フェリクスは軽く頷いた。「僕も研究者として図書塔はよく使うからね。王城にはない古い写本や地方記録も、学院側には残ってたりする」「王城にないものが?」 ルシアンが眉を寄せる。「王城は、残すべきものを管理する場所だからね。でも学院は少し違う」 フェリクスは窓の外を眺めながら笑った。「捨てきれなかったものまで抱えてる」 ルシアンは小さく目を細める。 地下礼拝堂。削られた壁画。顔を壊された女神像。黒き髪は、ノクシアの器。あれもまた、誰かが捨てきれなかったものなのかもしれない。「ローディア家は、古い知識に近い家だ」 フェリクスが続ける。「歴史、宗教、禁書、地方信仰……そういうものを代々集めてきた」「だからアルバート教師とも繋がりがあった可能性があるのか」「十分あり得るね」 セレネが静かに呟く。「知識を集める家、ですか」 ローディア公爵家は、五大公爵家の中でも特別な立場にある。 一方で、北方防衛を担うヴァルフォード

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     昼を少し過ぎた頃。王族区画の執務室には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。 ルシアンは机へ肘をつきながら、エドガーが整理した資料へ視線を落としている。向かい側では、フェリクスが紅茶を片手に書類を眺めていた。そしてエドガーはというと、几帳面な性格そのままに、机の端で資料を分類している。「アストレア公爵家の令嬢が足を怪我したのは三日前です」 エドガーが静かに口を開いた。「階段から落ちたと記録されています」「偶然にしては出来すぎてるな」 ルシアンは眉を寄せる。 地下礼拝堂。杖の跡。そして公爵家の紋章入りのハンカチ。疑うには十分すぎた。だが同時に、どこか噛み合わない感覚も残っている。「本人へ直接確認するしかないだろ」「今日、公爵家へ行くの?」 フェリクスが紅茶を置きながら尋ねた。「ああ。話を聞く」「王族特務隊として?」「表向きはな」 ルシアンがそう答えた時だった。コンコン、と扉がノックされる。「失礼します。遅くなりました」 静かな声と共に扉が開いた。 セレネだった。淡い青銀色のドレス。昼の光を受けると柔らかく色が変わる、落ち着いた明るい色合いだ。装飾は控えめだが、上質な生地なのがすぐ分かる。 そして何より目を引いたのは髪だった。いつもは下ろしている長い黒髪を、今日は後ろで丁寧に編み込み、すっきりとまとめている。白い首筋が見えていた。 入室したセレネが軽く一礼する。その姿を見た瞬間、昨夜、指先へ滑った黒髪の感触が不意に蘇る。柔らかくて、驚くほど軽かった。ルシアンの視線が自然と止まった。「……髪」 ぽつりと漏れた声に、セレネがきょとんと目を瞬く。「え?」「今日は上げてるんだな」 セレネが明らかに驚いた顔をする。まさかそこを指摘されると思っていなかったのだろう。「……よく気づきましたね」「いや、普通に分かるだろ」「ルシアンが女性の髪型に気づくなんて珍しいねぇ」 フェリクスが面白そうに笑う。ルシアンは露骨に眉を寄せた。「うるせぇ」「いやだって、本当に興味ないタイプじゃん?」「兄上」「昨日何かあった?」「何もねぇよ」 即答だった。だが、少しだけ返答が早すぎた。 フェリクスが楽しそうに目を細める。セレネはというと、ほんの少しだけ視線を逸らしている。白い頬が、僅かに赤い。 だがルシアンは気づいていない。「そ

  • 感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜   第一章 27話 微睡みの声

     地下水路を出た頃には、空が白み始めていた。 夜明け前の王城は静かだった。昼間の喧騒が嘘みたいに、人の気配が少ない。地下の湿った空気から戻ってきたせいか、石造りの回廊を流れる朝の冷気が妙に心地よく感じた。ルシアンは軽く息を吐く。 身体が重い。 王都の噴水で遺体が見つかってから、まともに眠れていない。学院での事件。王城で倒れた女官。禁書区域で見つけた古い記録。そして地下水路。気づけば、夜は明けかけていた。 隣を歩くセレネも、さすがに疲れているらしい。濡れた黒髪がまだ完全には乾いていない。地下水路の湿気をまとったまま、静かな顔で歩いている。フェリクスが小さく肩を竦めた。「今日はここまでにしようか。さすがに頭が働かない」「兄上でもそんなこと言うんだな」「失礼だなぁ。僕だって疲れるよ」そう言いながらも、フェリクスの表情はどこか楽しそうだった。「地下礼拝堂、面白かったしね」「面白いで済ませるな」「でも久々だろ? ルシアンがこんなに夢中になってるの」 ルシアンは小さく眉を寄せる。否定しようとしたが、言葉が出なかった。確かに気になっていた。王城の地下に、あんな場所が残っていたことも。誰かが今も使っている形跡があることも。全部が妙に引っかかっていた。「じゃ、僕は一度部屋へ戻るよ。また昼頃に」フェリクスは軽く手を振ると、そのまま別の回廊へ消えていった。 静けさが残る。ルシアンは隣のセレネを見る。「お前も休め」「殿下こそ」「俺はまだ執務が残ってる」セレネは少しだけ呆れたような顔をした。「少しはお休みください」「努力はする」 絶対休まない返答だった。セレネも分かっているのか、小さく息を吐いた。「……無理はなさらないでください」「お前もな」 短いやり取りの後、二人はそれぞれ別の回廊へ向かう。 婚約者であるセレネには、王城内に専用の居室が与えられていた。正式な婚姻前とはいえ、王族教育や公務補佐のため、半ば王族扱いに近い立場なのだ。ルシアンはそのまま執務室へ戻った。部屋へ入った瞬間、ようやく肩の力が抜ける。 机の上には、エドガーが整理したらしい資料が既に積み上がっていた。几帳面すぎるほど整っている。「……仕事早ぇな」ルシアンは適当に一枚手に取る。だが文字が頭へ入ってこない。視界が霞む。 限界だった。 ルシアンは低く息を吐くと、

  • 感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜   第一章 26話 地下礼拝堂

     地下礼拝堂は、想像していた以上に広かった。 地下水路の先に突然現れたとは思えないほど、空間が整っている。ルシアンは灯りを少し高く掲げた。揺れる炎が石壁を照らし、古びた礼拝堂の全貌がゆっくり浮かび上がっていく。 天井は半円状になっていた。地下とは思えないほど高い。水路部分の圧迫感とは違い、この空間だけ妙に広く感じる。 壁面には古い彫刻が刻まれていた。だが、その多くは不自然に削られている。まるで、何かを隠すように。 床には薄く水が溜まり、歩くたび小さな波紋が広がった。地下特有の湿気が濃い。それなのに、この空間には別の匂いも混じっていた。 香だ。 甘いような、少し苦いような独特の香り。最近焚かれたものだと分かる。フェリクスも周囲を見回しながら、小さく息を吐いた。「……思ったより保存状態がいいね」「放置されてたにしては綺麗すぎる」ルシアンは祭壇へ近づく。石造りの祭壇は古いが、埃が少ない。最近誰かが触れた跡がある。灯りを近づけると、表面には細かな傷が無数に刻まれていた。古い文字だ。だが一部は、何かで削り取られている。風化というより、意図的に消されたように見えた。その時だった。後ろで、水を踏む小さな音がした。 振り返ると、セレネが壁際へ近づいていた。海色の瞳が、削られた石壁を静かに見上げている。「……どうした」「削られています」セレネは壁へ触れず、目だけで痕跡を追っていた。「かなり後の時代に、意図的に」ルシアンも灯りを向ける。確かに不自然だった。一部分だけ、深く削り取られている。普通の風化ではこうならない。フェリクスが興味深そうに近づいた。「分かるの?」「削り方が違います。元々の彫刻と年代が合っていません」セレネは静かな声で続ける。「古い礼拝堂を、後の時代に誰かが修正したのだと思います」「つまり、残したくない何かがあった?」「可能性はあります」 地下礼拝堂。消された紋章。ノクシア。全部が少しずつ繋がり始めていた。ルシアンは祭壇の奥へ灯りを向ける。そこには、大人三人分ほどの高さがある巨大な女神像が残されていた。 天井近くまで届きそうな石像は、長い年月を地下で過ごしていたせいか、表面の一部が黒ずんでいる。だが、それでも異様な存在感があった。 長い髪。細い指。胸元で抱える大きな水瓶。その水瓶からは、今も地下水が流れているよ

  • 感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜   第一章 25話 地下水路

     石階段は思った以上に長かった。 降りるほど空気が重くなる。湿った匂いが肺へまとわりつき、ルシアンの手にした灯りの炎も、不安定に揺れていた。コツ、コツ、と足音だけが暗闇へ響く。狭い石壁にぶつかった音が、少し遅れて返ってくる。まるで、後ろから別の誰かが歩いているみたいだった。ルシアンは小さく眉を寄せる。「……気味悪いな」「音が反響してるんだよ」 後ろからフェリクスが静かに答えた。「地下水路特有の構造だね。壁が石造りだから余計響く」その時だった。フェリクスが思い出したように口を開く。「そういえば、新しい補佐官君は?」「ああ、エドガーなら執務室へ戻した」ルシアンは前を向いたまま答える。「事件関連の資料整理を頼んである」「なるほど。さすがに地下探索までは連れて来なかったか」「剣も使えねぇしな」エドガーは頭は回る。だが、こういう場所向きではない。むしろ今頃、山積みになった記録書類と格闘している方があいつらしかった。さらに数段降りたところで、ふっと空間が開けた。階段が終わる。ルシアンは灯りを少し高く掲げた。揺れる炎が暗闇を押し退け、地下空間をぼんやり照らし出す。そこに広がっていたのは、古い地下水路だった。 天井は低い。背の高いルシアンだと、少し圧迫感を覚えるほどには狭い。両脇の石壁には、長い年月をかけて染み込んだ黒い水跡が浮かび、床の端には浅く水が溜まっている。 灯りがなければ、数歩先すら見えない暗さだった。炎が揺れるたび、石壁の影が歪む。まるで誰かが動いたように見えて、一瞬、視線がそちらへ引っ張られた。どこかで、水が流れていた。ちゃぷん。 遠くで小さな水音が響く。だが、その音は地下通路の反響によって妙に広がり、位置が分からなくなる。前から聞こえたと思えば、次は後ろから聞こえた気がする。ルシアンは小さく舌打ちした。「方向が分かりづれぇ……」「だから歌声に聞こえるんだろうね」フェリクスが周囲を見回しながら言う。「人の声って、反響すると妙に伸びるから」ルシアンはゆっくり周囲を観察した。地下水路と言っても、ただの下水ではない。古い石造りの通路が幾つも枝分かれしている。王城建設初期の設備なのだろう。アルヴェリア暦726年。 王城は何度も増築されている。古い設備が地下へ埋もれていても不思議ではなかった。その時だった。灯りの

  • 感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜   第一章 第7話 足跡

     セレネの視線は、ずっと中庭の奥のほうへ向けられていた。死体ではない。もっと奥の、別の何かを探しているような目だった。「……お前、何を見てる」 ルシアンは低く問う。 セレネはすぐには答えなかった。睫毛の動きすら惜しむように、視線だけが、ゆっくりと中庭の隅から隅へと流れていく。それから、ぽつりと言った。「まだ、分かりません。ですが、嫌な感じがします」    その時だった。「殿下」 中庭の側で待機していた男が、早足で駆け寄ってきた。エドガー。王族特務隊の隊長補佐。数か月前から隊長補佐になった男だが、普段は資料整理を任せている、几帳面で空気を読むことに長けた男だった。「現場の封鎖

  • 感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜   第一章 第3話 水鏡の死体③

    「何かを起こそうとしているのですね……」 雨音に紛れるほど、小さな呟きだった。けれど、ルシアンの耳には確かに届いていた。 セレネはまだ水面を見つめている。揺れる水鏡。雨粒が次々と落ち、波紋が幾重にも重なって、新しい紋様が古い紋様を押し潰し、また別の雨粒が落ちて、ひと時も平らに戻らない。先ほど、確かにそこに映って見えた女の姿は──もう、どこにもなかった。 錯覚だったのか。 そう思おうとしても、背筋に残る寒気が消えない。外套の襟元から、いつのまにか冷たい水が一筋、首筋を伝って背中へ落ちていた。皮膚を伝う雨の温度よりも、もっと内側、肋骨の奥のあたりが、ひとり冷えていた。「何が起ころうとし

  • 感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜   第一章 第2話 水鏡の死体②

     雨音の中、セレネの声だけが静かに響いた。 一瞬、誰も言葉を発せなかった。やがて騎士たちが顔を見合わせ、困惑したようにざわめき始める。「し、しかしですね…ヴァルキュリア侯爵令嬢」「傷一つありません」「こんな死に方、人間にできるわけが」 怯えた声が重なる。セレネは騒ぎ立てる騎士たちを見ようともしなかった。ただ静かに、死体の右手を持ち上げる。「灯りを」 短く告げると、騎士の一人が慌ててランタンを近づけた。雨に揺れる炎の橙色が、死人の灰色の指先を照らす。皮膚の白さがランタンの光を吸い込み、爪の白濁した縁だけが、わずかに反射した。そこで初めて、ルシアンは違和感に気づいた。爪の隙間に、黒

  • 感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜   第一章 第1話 水鏡の死体①

     雨が降っていた。 王都アルヴェリアの石畳を濡らす夜の雨は、音もなく細く、肌に触れるたび冷たい湿りだけを残していく。風はほとんどなかった。煙突から立つはずの煙も、低く家並みの屋根に貼りついて動かない。街の輪郭が、ぼんやりと水に溶けていた。    ルシアン・アルヴェリアは黒い外套を翻しながら、騎士たちに囲まれた噴水広場へ足を踏み入れた。革靴の下で、雨水を含んだ石畳が一度だけ低く軋んだ。提げられたランタンの油の匂い、馬の汗、湿った石、それから誰かの上着の毛織物に染み込んだ煙草の残り香が、雨の中に薄く層を成している。深夜だというのに、人が集まりすぎている。貴族街で死体が見つかったからだろ

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